『文選』作者一覧

001 卜商(卜子夏)
002 干寶(干令升)
003 王巾(王簡棲)
004 王粲(王仲宣)
005 王微(王景玄)
006 王儉(王仲寶)
007 王融(王元長)
008 王褒(王子淵)
009 王讃(王正長)
010 王延壽(王文考)
011 王康琚
012 王僧達
013 木華(木玄虚)
014 孔文舉(孔融
015 孔安國
016 孔稚珪(孔徳璋)
017 左思(左太沖)
018 石崇(石季倫)
019 史岑(史孝山)
020 丘遲(丘希範)
021 司馬彪(司馬紹統)
022 司馬遷(司馬子長)
023 司馬相如(司馬長卿)
024 成公綏(成公子安)
025 朱浮(朱叔元)
026 任纊(任彦昇)
027 向秀(向子期)
028 羊祜(羊叔子)
029 江淹(江文通)
030 杜預
031 李康(李蕭遠)
032 李密(李令伯)
033 李陵(李少卿)
034 李斯
035 束皙(束廣微)
036 呉質(呉季重)
037 何劭(何敬祖・何敬宗)
038 何晏(何平叔)
039 沈約(沈休文)
040 宋玉
041 阮瑀(阮元瑜)
042 阮籍(阮嗣宗)
043 枚乘(枚叔)
044 東方曼倩(東方朔)
045 屈平(屈原
046 范雲(范彦龍
047 范蔚宗(范曄)
048 皇甫謐(皇甫士安)
049 韋孟
050 韋曜(韋弘嗣)
051 班固(班孟堅)
052 班昭(曹大家)
053 班彪(班叔皮)
054 班婕簱
055 袁宏(袁彦伯)
056 袁淑(袁陽源)
057 桓温(桓元子)
058 夏侯湛(夏侯孝若)
059 馬融(馬季長)
060 荊軻
061 徐悱(徐敬業)
062 殷仲文
063 孫楚(孫子荊)
064 孫綽(孫興公)
065 曹丕(魏文帝)
066 曹冏(曹元首)
067 曹植(曹子建)
068 曹操(魏武帝
069 曹攄(曹顏遠)
070 崔琰(崔子玉)
071 郭璞(郭景純)
072 郭泰機
073 張協(張景陽)
074 張悛(張士然)
075 張華(張茂先)
076 張載(張孟陽)
077 張翰(張季鷹)
078 張衡(張平子)
079 陸倕(陸佐公)
080 陸厥(陸韓卿)
081 陸雲(陸士龍)
082 陸機(陸士衡)
083 陳琳(陳孔璋)
084 陶潛(陶淵明
085 棗據(棗道彦)
086 嵇康(嵇叔夜)
087 傅玄(傅休奕)
088 傅咸(傅長虞)
089 傅亮(傅季友)
090 傅毅(傅武仲)
091 庾亮(庾元規)
092 楊脩(楊徳祖)
093 楊雄(楊子雲)
094 楊綠(楊子幼)
095 賈誼
096 虞羲(虞子陽)
097 鄒陽
098 趙至(趙景眞)
099 歐陽建(歐陽堅石)
101 劉安
102 劉邦(漢高帝)
103 劉伶(劉伯倫)
104 劉峻(劉孝標)
105 劉琨(劉越石)
106 劉腊(劉公幹)
107 劉歆(劉子駿)
108 劉徹(漢武帝
109 劉鑠(劉休玄)
110 潘尼(潘正叔)
111 潘岳(潘安仁)
112 潘勗(潘元茂)
113 盧褜(盧子諒)
114 鮑照(鮑明遠)
115 諸葛亮諸葛孔明
116 繁欽(繁休伯)
117 鍾會(鍾士季)
118 謝朓(謝玄暉)
119 謝莊(謝希逸)
120 謝混(謝叔源)
121 謝瞻(謝宣遠)
122 謝惠連
123 謝靈運
124 應貞(應吉甫)
125 應瑒(應徳蓀)
126 應璩(應休蓀)
127 繆襲(繆熙伯)
128 顏延之(顏延年)
129 禰衡(禰正平)
130 蘇武(蘇子卿)
131 蕭統(昭明太子)
??? 佚名

  • 作者の姓名の画数順に並べました。
  • 本名を先に載せ、『文選』で使われている名称を( )に入れました。
  • 文章が登場する都度、順次、李善注に従い、作者の伝記を紹介してゆきます。

昭明余韻の学習方針

 2008年の暮れから2010年の年初にかけて、「文言基礎」というサイトを設置して、文言文の基礎を学んできました。『千字文』という児童向けの識字書を、大の大人が、しかも外国人の大人が学ぶことは、それほど簡単なことではありません。私は、これを終えられた方々を心から尊敬いたします。

 「文言基礎」を学び終えられた方は、ご自身で中国古典の世界に臨む基礎的な力を備えられました。後はお好きなものを読まれればよいと思います。ただ、もしもう少しお付き合いいただけるならば、という仮定の下、『文選』を読んでみることにして、本サイト「昭明余韻」を設置した次第です。

 『文選』は子供には分からない、というのが私の持論です。多くの文体・多くの作者、それらを味わい分ける、というのが、最高の大人の贅沢だと思っています。

 大人でありながら、『千字文』という子供向けの識字書を根気強く学ばれた方には、その資格が十分にあると考え、また同時に、私自身も時間をかけて粘り強く学べるようにと考え、『文選』を選択しました。

 「文言基礎」の「頭から暗誦する」という姿勢とは方針をすこし変え、順に紹介する作品の中から、お好みのものがあれば口ずさんでみる、そして、さらに進んで、その作品の全体を通読してみる、というような仕方がよいと思います。長く楽しめる趣味としてお付き合い下さい。

 700首を超える『文選』の全作品に触れる予定ですが、ご紹介できるのは、それぞれの作品のごく一部分です。無理をせずに、味わえる分量を味わいましょう。私自身、『文選』の専門家ではありませんので、肩肘張って「教える」ようなつもりもありません。お互いに「楽しむ」ことができれば、幸いです。

昭明余韻で用いる本

 このサイト「昭明余韻」では、『文選』を味わってゆくつもりですが、そのために、いくつかの書物が要ります。

 もちろんまず読む本が必要です。読むための底本です。李善注本『文選』のうち、下記のどちらか。

『文選』蕭統編、李善注(中華書局、1977)
『文選』蕭統編、李善注(上海古籍出版社、中國古典文學叢書、1986)

 なお中華書局から1977年にはじめて影印された胡刻本『文選』は、その後も繰り返し影印されていますし、台湾などからも同じく胡刻本は影印されていますから、それらを用いてもまったく問題ありません。

 また、それら胡刻本の影印本以外に、中華書局からは1974年、北京国家図書館に蔵する尤袤本を影印したものもありますが(線装本で高価)、今回は「考異」付きのものを使いましょう。

 次は辞書です。

  • 『新華字典』(商務印書館)。こまめに中国語音と意味を確認するために用います。
  • 『辞源』(商務印書館)。正確に音と意味を調べるために用います。
  • 『古代漢語虚詞詞典』(商務印書館)。虚詞を調べるために用います。

 この3種類の辞書を利用して『文選』を読みます。とてもシンプルです。三種の辞書については、リンク先をご参照下さい。漢和辞典、古い訓点や日本語訳は極力、参照しないこととします。

洪邁の五臣注評価

 南宋の洪邁(1123-1202)が書いた『容齋随筆』は、なかなか楽しい読み物です。その巻一に「五臣注文選」という一文が収められており、五臣(呂延済・劉良・張銑・呂向・李周翰)の悪口を言っています。

 東坡詆『五臣注文選』,以為荒陋。予觀選中謝玄暉「和王融詩」云:「阽危褚宗衮,微管寄明牧」。正謂謝安、謝玄。安石於玄暉為遠祖,以其為相,故曰「宗衮」。而李周翰注云:「宗衮謂王導,導與融同宗,言晉國臨危,褚王導而破苻堅。牧謂謝玄,亦同破堅者」。
 夫以「宗衮」為王導,固可笑,然猶以和王融之故,微為有說,至以導為與謝玄同破苻堅,乃是全不知有史策,而狂妄注書,所謂小兒強解事也。唯李善注得之。

 大意を取ってみましょう。

 蘇軾(1036-1101)は、「五臣注」はでたらめだ、と言った。私の見るところでも、『文選』中の謝朓(464-499)の「和王著作八公山」(『文選』巻三十)という詩に「阽危 宗衮に頼り、管微(な)ければ明牧に寄す」という。「宗衮」は謝安を指し、「明牧」は謝玄を指す。謝安は謝朓にとっては遠い先祖で、宰相をつとめた人だから「宗衮」というのだ。
 ところが李周翰の注では「宗衮というのは王導を指し、王導は王融と同族であり、晋の国が危なくなったとき、王導の力で苻堅を破った。牧というのは謝玄を指し、王導と一緒に戦って苻堅を破った」と言っている。
 そもそも「宗衮」が王導だなどというの自体お笑いぐさだが、さらに、この詩が王融(467-493)に唱和したものであるからといって、説を生み出して、王導(267-330)が謝玄(343-388)と一緒に戦って苻堅(338-385)を破ったというに至っては、まったく歴史書を無視し、でたらめに注釈したものであり、杜甫の所謂「小児強いて事を解す」だ。李善注だけが正解を得ている。

 383年、謝玄が前秦の苻堅を破ったことは事実ですが、その時、王導はとっくの昔に亡くなっていました。確かにひどい勘違いであると言えそうですね。もちろん、この一事のみをもって、「五臣注は駄目だ」と断ずるわけにはゆきませんが、本サイトでも、李善注を軸として『文選』を読み解きたいと思っています。

文選考異

 1986年に出た上海古籍出版社の点校本『文選』の「出版説明」には、次のようにあります。

 清の嘉慶年間、胡克家は、南宋の尤袤が出版した『文選』李善注本に依拠して覆刻し、尤刻本の明らかな誤りを数百カ所ほども訂正し(胡刻『文選考異』が訂正した部分を含めない)、さらに幾種類かの異なる版本に基づき『文選考異』十巻を作成し、校刊が優れ、もっとも通行する『文選』李善注本となった。今回も、胡克家の重刊本を底本として、標点して整理出版する。胡克家の『考異』十巻も、それぞれの篇章の後に分けて附し、読者の参考に供する。


 胡刻本の名声は、その本が優秀であることのみならず、当の胡克家(1757-1816)が『文選』と同時に出版した、『文選考異』とあいまってのものであることが分かります。

 では、その『文選考異』とは何でしょうか?胡克家「文選考異序」に、次のように言います。

 数百年来、徒だ後出の単行の(李)善注に拠り、便(すなわ)ち云う、顕慶(656-661)の勒成、已に此の如き為り、と、豈に大いなる誤りに非(あら)ずや。即ち何義門・陳少章、片言隻字において齗齗たるも、其の綱維を挈(あ)ぐる能(あた)わざるは、皆な異有るも知考せざるに繇(よ)りて也。
 余、夙昔鑽研し、近ごろ始めて悟る有り、参じてこれを会し、験を徴して爽(たが)わず。又た知交の此の学に通ずる者に訪ぬるに、元和の顧君広圻、鎮洋の彭君兆蓀、深く相い剖析し、僉(み)な疑い無しと謂う。遂に廼(すなわ)ち条挙件繋し、十巻を編撰し、諸凡の義例、反覆詳論し、二十万言に幾(ちか)し。苟(いやしく)も体要に非ざれば、均しく略する所に在り。敢えて諸(これ)を篋衍に秘せず、用(もち)いて海内の好学深思の士に貽(おく)り、庶(ねが)わくは其れ斯(これ)に取ること有らんを。嘉慶十四年(1809)二月下旬、序す。

 この序文によると、胡克家は「現行本の李注がもともとの李善注本ではない」と気づき、それを顧広圻(1770-1839)・彭兆蓀(1769-1821)の二人に相談し、その上でこの『考異』を作った、ということになります。

 顧広圻は、清朝最高の校勘学者として名高い人物です。実態はむしろ、顧広圻・彭兆蓀の二人が『考異』を書いたということのようですが、いずれにせよ、この『文選考異』という校勘記の優秀さによって、胡刻本の価値も高められたことに、疑いはありません。

胡刻本文選

 「胡刻本(ここくぼん)」と呼ばれる本があります。聞き慣れないかもしれませんが、『文選』の中でもっともよく知られた版本のことです。

 他の古書同様、『文選』も写本として成書したのち、宋代に入ってから、木版印刷されて流布するようになりました。中国においては、木版印刷の技術が唐代、8世紀頃に発明されましたが、木版印刷による出版が本格的に隆盛を迎えたのは、宋代(960-1279)に入ってからのことです。

 南宋(1127-1279)の淳熙年間(1174-1189)、無錫の尤袤(ゆうぼう、1127-1194)という人が、李善注『文選』を出版しました。前回お話ししたように、これは六臣注『文選』から李善の注を抜き出して再編集したものです。これが、「尤刻本(ゆうこくぼん)」と呼ばれるものです。なお、尤袤は大蔵書家として知られる人物で、『遂初堂書目』という彼の図書目録が現在でも伝えられています。

 嘉慶十四年(1809)、この「尤刻本」を清代の人である胡克家(1757-1816)が重刻しました。それが「胡刻本」です。胡克家が「重刻宋淳熙本文選序」にて「雕造は精緻、勘對は嚴審、尤氏の真本と雖も、殆ど是(こ)れ焉(これ)に過ぎざらん」と自負するとおり、造本・内容とも、非常に精巧に作られた本です。

 こうして「胡刻本」は、『文選』諸版本のうち、もっとも有名な李善注本となりました。現在、入手しやすい『文選』李善注は、1977年に出た中華書局の影印本、1986年に出た上海古籍出版社の点校本などですが、これらはいずれも「胡刻本」を用いています。「昭明余韻」では、今後『文選』を読み進めますが、影印本でも点校本でもかまいませんので、「胡刻本」系統の『文選』を一部、お手もとにご用意ください。

李善注・五臣注・六臣注、そして李善注

 唐代の書物を記録した『新唐書』藝文志には、『五臣注文選』を次のように記録します。

 『五臣注文選』三十巻。衢州常山尉の呂延濟・都水使者の劉承祖の男の良・處士の張銑・呂向・李周翰の注。開元六年(718)、工部侍郎の呂延祚 之を上す。

 李善が明顕年間(656-661)に注釈を完成させてのち、60年ほどして、「五臣注」ができたことが分かります。こうして、「李善注」「五臣注」という、二つの系統の『文選』注が併存したのですが、後世、複雑な展開を遂げました。標点本『文選』(上海古籍出版社、1986)の「出版説明」を和訳して、この間の事情を紹介しましょう。

 後世の人は、この二つの注釈を一つの書物にして、さらに整理を加え、「六臣注」と称した。……。『文選』六臣注が盛行してからというもの、李善注の原書は埋没してしまい、現在見ることのできる『文選』李善注は、すべて後人が「六臣注」の中から抜き出したものである。李善注と五臣注は、合併されてからさらに分けられたので、(「六臣注」から)抜き出された李善注には、他の注釈が紛れ込んでいる部分もあれば、また他の注釈と間違われて削られてしまった部分もある。我々としては、清朝の学者の校勘記や敦煌石室で発見された旧鈔本の『文選』残巻を詳しく読んで校勘すれば、このような混乱した複雑な情況を理解することは難しくない。

 このように、現在の李善注は、いったん「五臣注」と合併されて「六臣注」となり、さらにそこから抽出されたものであり、唐代の初期に李善が作ったそのまま、とはゆかないのが現状なのです。