文選考異

 1986年に出た上海古籍出版社の点校本『文選』の「出版説明」には、次のようにあります。

 清の嘉慶年間、胡克家は、南宋の尤袤が出版した『文選』李善注本に依拠して覆刻し、尤刻本の明らかな誤りを数百カ所ほども訂正し(胡刻『文選考異』が訂正した部分を含めない)、さらに幾種類かの異なる版本に基づき『文選考異』十巻を作成し、校刊が優れ、もっとも通行する『文選』李善注本となった。今回も、胡克家の重刊本を底本として、標点して整理出版する。胡克家の『考異』十巻も、それぞれの篇章の後に分けて附し、読者の参考に供する。


 胡刻本の名声は、その本が優秀であることのみならず、当の胡克家(1757-1816)が『文選』と同時に出版した、『文選考異』とあいまってのものであることが分かります。

 では、その『文選考異』とは何でしょうか?胡克家「文選考異序」に、次のように言います。

 数百年来、徒だ後出の単行の(李)善注に拠り、便(すなわ)ち云う、顕慶(656-661)の勒成、已に此の如き為り、と、豈に大いなる誤りに非(あら)ずや。即ち何義門・陳少章、片言隻字において齗齗たるも、其の綱維を挈(あ)ぐる能(あた)わざるは、皆な異有るも知考せざるに繇(よ)りて也。
 余、夙昔鑽研し、近ごろ始めて悟る有り、参じてこれを会し、験を徴して爽(たが)わず。又た知交の此の学に通ずる者に訪ぬるに、元和の顧君広圻、鎮洋の彭君兆蓀、深く相い剖析し、僉(み)な疑い無しと謂う。遂に廼(すなわ)ち条挙件繋し、十巻を編撰し、諸凡の義例、反覆詳論し、二十万言に幾(ちか)し。苟(いやしく)も体要に非ざれば、均しく略する所に在り。敢えて諸(これ)を篋衍に秘せず、用(もち)いて海内の好学深思の士に貽(おく)り、庶(ねが)わくは其れ斯(これ)に取ること有らんを。嘉慶十四年(1809)二月下旬、序す。

 この序文によると、胡克家は「現行本の李注がもともとの李善注本ではない」と気づき、それを顧広圻(1770-1839)・彭兆蓀(1769-1821)の二人に相談し、その上でこの『考異』を作った、ということになります。

 顧広圻は、清朝最高の校勘学者として名高い人物です。実態はむしろ、顧広圻・彭兆蓀の二人が『考異』を書いたということのようですが、いずれにせよ、この『文選考異』という校勘記の優秀さによって、胡刻本の価値も高められたことに、疑いはありません。