洪邁の五臣注評価

 南宋の洪邁(1123-1202)が書いた『容齋随筆』は、なかなか楽しい読み物です。その巻一に「五臣注文選」という一文が収められており、五臣(呂延済・劉良・張銑・呂向・李周翰)の悪口を言っています。

 東坡詆『五臣注文選』,以為荒陋。予觀選中謝玄暉「和王融詩」云:「阽危褚宗衮,微管寄明牧」。正謂謝安、謝玄。安石於玄暉為遠祖,以其為相,故曰「宗衮」。而李周翰注云:「宗衮謂王導,導與融同宗,言晉國臨危,褚王導而破苻堅。牧謂謝玄,亦同破堅者」。
 夫以「宗衮」為王導,固可笑,然猶以和王融之故,微為有說,至以導為與謝玄同破苻堅,乃是全不知有史策,而狂妄注書,所謂小兒強解事也。唯李善注得之。

 大意を取ってみましょう。

 蘇軾(1036-1101)は、「五臣注」はでたらめだ、と言った。私の見るところでも、『文選』中の謝朓(464-499)の「和王著作八公山」(『文選』巻三十)という詩に「阽危 宗衮に頼り、管微(な)ければ明牧に寄す」という。「宗衮」は謝安を指し、「明牧」は謝玄を指す。謝安は謝朓にとっては遠い先祖で、宰相をつとめた人だから「宗衮」というのだ。
 ところが李周翰の注では「宗衮というのは王導を指し、王導は王融と同族であり、晋の国が危なくなったとき、王導の力で苻堅を破った。牧というのは謝玄を指し、王導と一緒に戦って苻堅を破った」と言っている。
 そもそも「宗衮」が王導だなどというの自体お笑いぐさだが、さらに、この詩が王融(467-493)に唱和したものであるからといって、説を生み出して、王導(267-330)が謝玄(343-388)と一緒に戦って苻堅(338-385)を破ったというに至っては、まったく歴史書を無視し、でたらめに注釈したものであり、杜甫の所謂「小児強いて事を解す」だ。李善注だけが正解を得ている。

 383年、謝玄が前秦の苻堅を破ったことは事実ですが、その時、王導はとっくの昔に亡くなっていました。確かにひどい勘違いであると言えそうですね。もちろん、この一事のみをもって、「五臣注は駄目だ」と断ずるわけにはゆきませんが、本サイトでも、李善注を軸として『文選』を読み解きたいと思っています。