李善注・五臣注・六臣注、そして李善注

 唐代の書物を記録した『新唐書』藝文志には、『五臣注文選』を次のように記録します。

 『五臣注文選』三十巻。衢州常山尉の呂延濟・都水使者の劉承祖の男の良・處士の張銑・呂向・李周翰の注。開元六年(718)、工部侍郎の呂延祚 之を上す。

 李善が明顕年間(656-661)に注釈を完成させてのち、60年ほどして、「五臣注」ができたことが分かります。こうして、「李善注」「五臣注」という、二つの系統の『文選』注が併存したのですが、後世、複雑な展開を遂げました。標点本『文選』(上海古籍出版社、1986)の「出版説明」を和訳して、この間の事情を紹介しましょう。

 後世の人は、この二つの注釈を一つの書物にして、さらに整理を加え、「六臣注」と称した。……。『文選』六臣注が盛行してからというもの、李善注の原書は埋没してしまい、現在見ることのできる『文選』李善注は、すべて後人が「六臣注」の中から抜き出したものである。李善注と五臣注は、合併されてからさらに分けられたので、(「六臣注」から)抜き出された李善注には、他の注釈が紛れ込んでいる部分もあれば、また他の注釈と間違われて削られてしまった部分もある。我々としては、清朝の学者の校勘記や敦煌石室で発見された旧鈔本の『文選』残巻を詳しく読んで校勘すれば、このような混乱した複雑な情況を理解することは難しくない。

 このように、現在の李善注は、いったん「五臣注」と合併されて「六臣注」となり、さらにそこから抽出されたものであり、唐代の初期に李善が作ったそのまま、とはゆかないのが現状なのです。