李善

 『文選』に収録されている詩文は、難解なものばかりなので、注釈なしに読むことが出来ません。
 そこで、『文選』ができて間もなく、注釈が登場しました。早いのは、隋の蕭該(蕭統の族孫)『文選音義』、そして隋から唐にかけて活躍した曹憲『文選音義』で、特に曹憲については、「撰する所の『文選音義』、甚だ當時の重んずる所と為る。初め、江淮の間に文選學を為す者、之を憲に本づき、又た許淹・李善・公孫羅有り、復た相い繼ぎて『文選』を以て教授し、是れに由り其の學は大いに代(よ)に興る」と称されています(『旧唐書儒学伝、曹憲伝)。
 曹憲の文選学を承けて登場した学者のうち、最高の文選学者として誉れ高いのは李善(?-690)です。
 『旧唐書儒学伝、李善伝から、伝記を挙げておきましょう。

 李善なる者は、揚州江都の人なり。方雅清勁にして、士君子の風有り。明慶中(656-661)、累して太子内率府録事參軍に補せられ、崇賢館直學士、兼沛王侍讀となる。嘗て『文選』を注解し、分かちて六十卷と為し、之を表上し、絹一百二十匹を賜わり、詔して祕閣に藏せしむ。潞王府記室參軍に除せられ、祕書郎に轉じ、乾封中(666-668)、出でて經城の令と為る.賀蘭敏之と周密たるに坐し、姚州に配流せらる。後、赦に遇いて還るを得、教授を以て業と為し、諸生多く遠方自(よ)り至る。又た『漢書辯惑』三十卷を撰す。載初元年(690)卒す。

 この伝に、李善が唐の高宗に『文選』の注解を献上したことが見えますが、これが現在伝えられる『文選』李善注のもととなっているのです。
 昭明太子が編纂した『文選』は三十巻でしたが、それを六十巻に分けたのも、この李善でした。現在、広く流布している『文選』は、三十巻本ではなく、すべて六十巻本となっています。